はじめてのリビングラボ #6:豊かな共創が日本で立ち上がるメカニズム
木村 篤信/日本リビングラボネットワーク 代表理事
2026/03/16
今回で最終回となる「はじめてのリビングラボ」のコラム。これまで、著者2人により、リビングラボの考え方や実践のポイントについて紹介してきたが、最後に、これから実践に踏み出そうとする人の背中を押すために、豊かな共創が立ち上がるメカニズムについて考えてみたい。
豊かな共創を生み出すために必要なもの
リビングラボは、市民参加の文脈で語られることが多い。その議論の中で、よく参照されるのが、シェリー・R・アーンスタインによる「市民参加の梯」(※1)である(図1)。これは、行政政策における市民参加の度合いを八段階で整理したもので、下位には「操作」や「懐柔」といった非参加・名目的参加が置かれ、上位には「パートナーシップ」「権限委譲」「市民による統制」が位置づけられている。
図1:シェリー・R・アーンスタインの「市民参加の梯」
アーンスタインが指摘したのは、参加という言葉が使われていても、実際には市民が意思決定に関与していないケースが多いという点である。重要なのは、市民の声を聞くことそれ自体ではなく、行政が、意図的に権限を開き、市民に委譲することである。操作したり、うまく納得させたりするのではなく、意思決定の力そのものを手渡すこと。アーンスタインの議論は、共創を語る上で、いまなお重要な示唆を与えている。
しかし、ここで一つ注意すべき点がある。たとえ参加の梯の上位にあたる、権限の委譲が行われたとしても、必ずしも人々が自分たちの暮らしたい豊かな社会について、自分自身の言葉で語り始めるとは限らないという点である。言い換えれば、社会に暮らす一人の人間として自分の考えや自分の言葉がでてこない状態では、その場で求められる形式的な発言や行政に対するクレームに留まってしまうのである。
この状況は、ハンナ・アーレントの区別(※2)を用いれば、肩書や属性、役割、能力といった What として人が扱われ、その人固有の存在である Who が公共空間に現れていない状態だと言える。参加の梯の上位段階は、Who が現れる可能性に「開かれて」はいる。しかし、それだけで Who が自動的に立ち現れるわけではない。
この点は、日本でリビングラボや共創の場を設計してきた多くの実践者が、肌感覚として経験していることだろう。制度上は自由に発言できるはずなのに、住民は沈黙する。あるいは、住民として、行政職員として、企業担当者として、といった役割に即した言葉だけが往復される。形式的な参加は成立しているが、人間としての言葉が立ち上がらない。ここに、参加の梯だけでは捉えきれない問題がある。
日本社会では、このギャップがとりわけ大きくなりやすい。山本七平が指摘した「空気社会」(※3)に象徴されるように、場の空気を乱さないことが優先され、出過ぎることは無意識のうちに抑制される。また、お上意識の影響により、市民は要望やクレームとして語り、行政側は立場に基づく説明で応じるという関係が固定化されやすい。この構造のもとでは、たとえ権限が形式的に開かれていたとしても、自由に考え話すことは難しい(※4)。
では、形式的・役割的な言葉ではなく、その人としての言葉が立ち上がるためには、何が必要なのだろうか。
その人としての言葉が立ち上がるためのメカニズム
この問いに対するヒントは、リビングラボが発展してきた北欧の社会構造(社会システム)に見出すことができる(※5)(図2)。たとえばデンマークでは、個別プロジェクトの運営ノウハウ以前に、「その人として語ること」を支える社会的な仕組みが、教育や市民活動のレベルで組み込まれている。
図2:リビングラボ実践にみる北欧の社会構造(社会システム)
デンマーク発祥の森のようちえんでは、子ども主導の遊びという考え方を軸に運営されており、子どもたち同志が、その日にどの場所でどのように遊ぶのか、を話し合い、決める。また、大人になってからも、彼らが地域で活動するときに、一番先に考えるのは、商業サービスの利用ではなく、安価で自分たちで運営する市民団体に参加することである。手じかに団体がない場合は、自ら仲間を集めて、立ち上げる仕組みフォイーニング(forening)がある。 また、生涯学び直しができる人生のための学校「フォルケホイスコー レ(Folkehøjskole)」では、批判的に考え、対話し、共同で決められる人を育てるプログラムを提供している。これらは、誰かに代弁される存在ではなく、自らの言葉で語る主体を育てる土壌となっている。
同様のことは、日本の中にも見出すことができる。その一例が、地方創生の実践で知られる神山町である。1990年代の国際交流プロジェクトを起点に、アーティスト・イン・レジデンスやサテライトオフィスの誘致、神山まるごと高等専門学校の開校など、長期にわたる実践が積み重ねられてきた。これらの取り組みは、「やったらええんちゃうん」という言葉に代表されるように、単に人を呼び込んだだけでなく、「ここでは自分を表現してよい」という感覚を地域の内外に醸成してきた。さらに、2015年から始まった「まちを将来世代につなぐプロジェクト」では、行政だけでなく、町民、移住者、事業者が集まってフラットな関係で対話する場を持ち、そこから意欲のある人たちが中心にプロジェクトを立ち上げていった。その際に重視されているのは、地域内外の人たちとのつながりを育み、対話を重ねる中で関わる人たちの力を引き出すことであった(※6)(図3)。
図3:「まちを将来世代につなぐプロジェクト」における共創プラットフォームのメカニズム
これらの事例が示しているのは、デンマークや神山町にいる人々が特別な能力を持っているわけではないという点である。「自分の言葉を発してよい」という感覚が、社会的に保障されているかどうかが決定的な差を生んでいる。
人は、存在を肯定されることで安心・自由が生まれ、その関係性の中で対話することで言葉(うずうずする意欲)が引き出されていく(図4)。そのような環境・関係を心がけることが、日本において豊かな共創を広げていく鍵になるだろう。
図4:主体的に動き出せる土壌のメカニズム
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※1Arnstein, S. R. (1969)A Ladder of Citizen Participation,Journal of the American Institute of Planners, 35(4), 216–224.
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※2Arendt, H. (1958)The Human Condition, University of Chicago Press.(邦訳:ハンナ・アーレント(1994) 人間の条件, 志水速雄訳, ちくま学芸文庫.)
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※3山本七平 (1977)「空気」の研究,文藝春秋, (文春文庫).
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※4哲学者であり、哲学対話を実践する梶谷真司は、日常の中で自由に話し自由に考えられる場がない、ことを指摘したうえで、あえて自由を担保する場を作らないと自由な考えは生まれない、と主張する(梶谷真司(2018)考えるとはどういうことか,幻冬舎新書.)
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日本リビングラボネットワーク 代表理事
地域創生Coデザイン研究所 ポリフォニックパートナー
東京理科大学 客員准教授
木村 篤信
「どんな人でも可能性が引き出され、それぞれが自由になってゆく」そんな社会の実現をめざして、地域現場での市民協働プロジェクトや自治体ウェルビーイング政策の伴走、企業との共創プロジェクトに取り組んでいる。人が客体化されやすい現代日本の政策、組織規範、テクノロジーのあり方などを変えていくためには、産官学民がセクターを超えて共創(リビングラボ)して、自分たちで都市/地域をつくるアプローチが必要だと考えている。主な書籍に、「2030年の情報通信技術生活者の未来像」、「はじめてのリビングラボ」など。